今年は桜が遅いです。
いつまで経っても冬の続きのようなお天気。
朝外に出たときのキーンと張り詰めた空気…スキー場にいるような…とっても好きなんですが、毎年ならもうこの時期にはあり得ません。
先日は台風か!というような「春の嵐」。海外ではトレーラーを巻き上げるような巨大竜巻が起きていたり、アフリカで洪水の被害もあるようです。なんだか異例尽くめの春です。
でも、それもきっと「人間にとっては」という条件付き。
地球のスケールで観ればたいしたことではないでしょう。
まあ、ちょっとくしゃみをした、ちょっと免疫力が下がっていて体温が下がった、程度のことなんだと思います。
大騒ぎしているのは人間だけ。
桜ですら、気温が上がったら咲こう、と、つぼみのまま待機中。けして「つい開いてしまって。寒さと雨風にやられて咲いてすぐ散りました…」なんてことにはなっていません。
ところが人間と来たら。
「冬のコート、クリーニングに出したのにまた着なきゃ…」「いつまで経っても冬物が片付かないわ」とイライラ。
異常気象だと言ってはドキドキ。地球は滅びるんじゃないか?温暖化だ!いや寒冷化でしょう!と大騒ぎです。
時には地球の視点になってみてください。
地球にとって温暖化や寒冷化のどこが不都合なんでしょうか…
春が遅いのも大きな問題でしょうか…
今までなかったような春の嵐が吹き荒れたことがマイナスになるんでしょうか…
答えは「否」です。
地球にとってはどれもたいしたことはないのですよね。
寧ろ浄化の一環、調整の一環として、ごく当たり前に起こっている現象なのでしょう。
「人間にとって」大問題なだけなのです。
私たちはつくづく自分本位・人間本位にできているのですよね。
動植物の捕獲・採取のバランスから化石燃料の採掘・使用、挙句の果ては(もともと全く人間の所有物ではない筈の)土地の権利や水の権利まで、自分たちが掌握・コントロールしているように振舞っています。
けれど先の地震や原発の事故で解ったとおり、人間の浅はかでちっぽけな知恵をどれだけ並べても、自然の力・地球の鼓動に抗う術などないのです。
地球の視点で世界を見たとき、人間の行動・言動や存在そのものがとてもちっぽけに見えます。
どんなに足掻いても、地球の決定には従わざるを得ない。
たとえば地球の決定が「明日一日空気を遮断します」だったとしても、私たちはそれに従わざるを得ない無力な存在なのです。
地球の長い歴史からみれば、一日なんていう時間はほんの一瞬の話で、「メンテナンスのためにシステムが止まります」というのも何ら不思議ではありません。宇宙のスケールで観ればさらに、地球の1日という単位はほんの数百分の一秒というところでしょうか。
それでも、そのメンテナンスで死んでしまうかもしれない私たちです。
また、気象の異常を目の当たりにして「地球が怒っていますよ!」なんてナンセンスだと私は思います。
地球は怒ってなんていません。
ただあるがままに自身の体(惑星地球)を整えようと調整しているだけなのです。
「怒っている」なんて言えてしまうのは、人間を地球と同等に考え、自分を過大評価している証拠みたいなものです。
原発が必要か否か、争っている場合でしょうか。
もし地球が原発を不要としたならば、様々な悪条件がかさなり初めから建設できなかったでしょう。
それでも建設運用できたということは地球がOKしたからです。
ただし「人間たちの利便性のために原発を作って良いよ」なんて考えるのはおこがましい!
原発を作り運用すること、またはメンテナンスや廃棄すること、災害時に対処すること…などなど、人間が必要とする多くの「経験」を提供するためにOKとしたのではないのでしょうか。地球自身もわが身を傷めることを承知の上で。
それは、子に経験を促すため、どんなに危険でも勇気を持って黙って見守っている母親の立場と同じです。
自分は傷ついても身を挺して子の成長を援助する、そんな親の気持ちと同じです。
地球の子として、母に還せることは何でしょうか。
成長のために提供されたものは、できるだけ傷つかないように、大切に扱う。
母の心と体を思いやって行動する。
地球と人間の間柄をそのように考えると、原発が必要かどうかの議論は不要です。どちらかで争うこともありません。
ただただ、地球を母と思うなら、明日もこの母の元で生きていきたいなら(そして私たちにそれ以外の選択肢はありません)、地球を傷つける原発は不要に決まっているからです。
私が、原発云々の署名活動や抗議活動に参加しない理由はここに在ります。
要・不要の議論に参加することも、原発不要を「訴える」ことも、どれも人間のエゴに過ぎません。
誰に訴えるのですか?
人間が人間に対してですよね。
誰が裁定をするのですか?
人間ですよね。
どこまで行っても、人間の視点でしかありません。
地球という大前提を無視して、人間のエゴと言わずに何と言えばいいのでしょう。
反対派は、争って憎しみの連鎖を増やすだけです。
賛成派は究極は個人的な利便性を訴えているに過ぎません。
結局のところ、この議論によって、お互いに相手を批判し、エゴを押し付けあうことは、マイナスのエネルギーを増幅しているに過ぎないのではないか…。いつも疑問です。
ただただ、私たちは、「地球上に生かされている存在だということに気づき、感謝し、その庇護をないがしろにするものを肯定しない」必要なのはそんなシンプルなことなのではないのでしょうか。
「私たちを存続させてくれている地球を傷つける物は不要」との信念を持って、静かに行動するだけです。
明日も目覚めたらこの地球に生かされていますようにと祈り、眠るときには生かされた1日に感謝する。
原発がなくなり、電気が使えなくなったら、昔と同じように朝日と共に起き出し、夕日とともに眠る生活になるだけです。
インターネットは?洗濯機は?電子レンジはどうするの?冷蔵庫は?…みんななくなるだけです。それでも地球は私たちに生きていてもいいよというなら、生きていく術は確実にあるはずです。もしそうでないなら淘汰されるのみ。
本質的に私たちはこの生命を地球の動向に委ねるしかないのです。
異常気象を見せられても、地震や津波が起こっても、これを思い出したいものですね。
そんなはかない人の命だからこそ、今日今生きているこの一瞬を大切に大切にしよう、そう思えるのではないでしょうか。
大騒ぎすることなく、一人ひとりが地球を傷つけないという信念をもって、その通りの行動をする、そんな毎日が地球を修復し、様々なネガティブをポジティブな状態へと変化させていく、と、私は思っています。
あなたは地球の視点で自分を眺めたことがありますか?
時間の密度が高い。
いろんなことが次々押し寄せてくる。
最近は「悪い出来事」と「良い出来事」という分け方をしなくなった。
身の回りで起こるからには、すべて「必要なこと」なんだろう。
もちろん、うれしいことは素直に喜ぶし、幸せを実感する。
「嫌だな」と感じることは、自分にとってより深く検証分析すべきことなんだろう。
過去に同じことが起こっていて、それをきちんと胎に落とさなかったために、もう一度そういう機会が与えられている、と思う。
「立ち向かっていく」とか「乗り越える」ということはもうやめた。
無理無理がんばってみても、やっぱり胎に落ちないときはある。
そんなときはギブアップして、降参を認める。
「負けた」の「弱い」の「自分はダメだ」の…そんなことを言って悩んでいる時間はもったいないので、あっさり降参して、早速別の課題に取り掛かる。
また似たような出来事が降って湧いたときに向き合えば良いだけだと思う。
どのみち、短い人生で学べることの数は決まっているだろうし、生まれるときに「今生はこれをやる」と決めてきた課題があるとしたら、途中でなくなったりはしないだろう。
ちょうどジグソーパズルのようだ。
パズルの絵柄は決まっている。
ピースのはめ方によって絵柄が変わったりはしない。
きちんと収まるところに収まるようできているし、出来上がる絵柄はピースを切り離す前のものだ。
つまり、人生は、本人にとってはひとつのストーリーのあるパズルであり、好きなペースで、いずれ完成させることができればベスト。ひとつの人生で足りなかったピースは、繰り返される転生の中で集める…そんなものなのではないだろうか。
ジグソーパズルを組み立てているときのことを想像してみる。
最初に絵柄を知らされていなかったら、もちろんどんなものが出来上がるのかわからない。
これとあれが合うんじゃないか…そんな予測でピースを合わせてみる。
偶然一致することもあるし、まったく違っていることもある。
…人生は偶然の一致の連続なのかも知れない。
やがていくつかのピースが合わさった塊があちこちにでき、それを眺めているとピーン!と来ることがある。この塊とあの塊がピッタリはまる!隣同士だ!
…人生のターニングポイントはいつも直感が支配しているのかも知れない。
いくつかの塊がつなぎ合わされると、そこには絵柄の一部が見えてくる。
なんとなく、このパズルの全容が見え始める。
…人生の全容なんて、相当ピースを集めないと解らない、ということかもしれない。
まだたいして経験も積んでないうちから「私の人生の目的はこれです!」なんてものが見える訳はないのだ、と思う。
そう思い込みたい自分がいる、というだけのこと。
でもそれも良いのではないかと思う。
それは確実に全体の絵柄のどこかのピースの塊となっていくだろうから。
それとは逆に、たくさんのピースをはめ込み完成に近い絵柄を持つ人を、私たちは「先生」と呼びたくなるのかも知れない。それは直接的に何かを教えてくれる人ではないにしても。
全体像がわかる頃にはかなりの量のピースがはめ込まれている。
人生においても、かなりたくさんの経験をし、胎に落ちた回数は経験値となってピースをゲットでき、それが正しくはめ込まれている状態だ、ということだ。
…モンスターを倒しながらなぞを解いていくRPGゲームは、人間の人生の縮小版だ!
その絵柄そのものは、いかようにでも観ることができる。
角度を変えれば違った絵に見えるかも知れない。
光の当て方や観る人の感性で変わる。
人の人生を見せていただくとき、その絵柄を見ているのは私という他人なのであり、パズルの主の本人とはまったく違う絵柄に見えているかも知れない。だからこそ、「あなたの人生はこうですよ」とか「こう生きた方がいい」なんていうのは、他人のエゴだ。
海の絵柄のパズルを、まったく違う山の絵柄だと解釈し、ああしろ、こうしろと言っているようなもの。
冷静に考えてみれば滑稽だけれど、みんな毎日これの繰り返しなのかも知れない。仕事関係も、友人関係も、親子ですら。
もっと良く観ると、自分自身のパズルの絵柄が何なのかわからず、いろんな人に聞いてまわっている人も多い。10人居れば10人の観方があるから、結局何なのか解らず仕舞いということになって、さらに迷ってしまうこともある。
人の人生を見せていただくというのは、自分の感性においてその絵柄を鑑賞させていただくことだと思う。けして自分の感性に基づいて「干渉」することではないはずだ。
たとえ「干渉」を依頼されても、また余儀なくされたとしても、自分の人生ではない、他人の人生なのだ、絵柄は本人にしかわからないものだ、ということを忘れずに居たい。そうすれば最終的に「思い通りにしよう」とか「操作しよう」なんて危ないところへはたどり着かないはず。
余談だが、人の人生を操作したい!と思わせる最大の要素は「お金」のような気がする。
人生の目的が「お金を得ること」になってしまった人は、気づかぬうちに信用を捨て、信頼をやめ、気づかぬうちに御輿に乗り他人にそれを担がせてしまう。同じように人生の目的が「お金」の人たちが、それに群がっておこぼれをもらうために御輿担ごうとする。
お金は「回りもの」だ。
循環にの一部がたまたまお金という形態なだけだ。
お金が目的になると循環が壊れる。
そんなことをやっている間は、人間として生まれたからには一番体験したい「我欲」を地で行っているときで、人生の「祭り」の期間なので、パズルの組み立てはお留守になるのではないだろうか…
いずれ「祭り」は終わる。
人生の途中でかもしれないし、今生の終わりにかも知れない。
そのときに、祭りの期間パズルに取り組んでいなかったことに気がついても「後の祭り」(笑)
それでも「祭り」を否定することはない。
やりたいことだからやらなくてはもったいない。
パズルの完成が遅れるのも覚悟の上で、の話だ。
その覚悟が、私たちの生きている世界では「責任」と表現されるのではないだろうか。
自分の責任において人生を組み立てていく。
他の誰かにはできない。
誰かにその責任を肩代わりしてもらうこともできない。
「人生って」と難しく考える必要はないのだな、ということが、わかっただけでも、私の今生は実り多い。
そういえば、ピースのはめどころがわからずに右往左往したり、絵柄が解らないことにジレンマを感じたりしたこともあったような…。
今は、むしろ完成までどんな絵柄なのかを予測したくはない。
完成したときの驚きやら興奮やら感動やらが前もって予測できると薄れてしまいそうで残念だから。
たたみかけるようにたくさんのことが押し寄せてきて、息つく暇も無く、次のこと、次の新しいこと、と、濃い時間の中を生きていることが心地よくもある。
いろいろな人の人生と交差する私の人生。
そのたびに、その方の人生を鑑賞させていただき、素敵!と思ったところを取り入れ、必要ないと思ったところをそぎ落とし、そうしていつかピースがそろったとき自分の絵が完成していくのだろう。
そろそろ地球でのパズルを楽しむ時間は終わりに近づいている、と言われている。
だからこんなに経験の密度が上がっているのかも知れない、とも思う。
でも、最近良く思う。
パズルは意外と大変で、根気が必要で、途中で投げ出したくもなるけれど。
面白くなってしまうと嵌る。
完成が近づくと、また次の絵柄に挑戦したいという思いが湧いてくる。
そして、右往左往している自分、葛藤して、せっかく集めたピースをまた蹴飛ばしてばらばらにしてしまう自分、絶対ココ!と自身を持ってピースを嵌めたのに合わなかった時の落胆、自信なく置いてみたらピッタリはまったときの喜びよう、すべてすべて。
この世界でしか体験し得ないことなんだと思うと、とても愛しい。
この時間がなくなってしまうことが惜しい。
だからもうしばらくは達観しないで、パズルに興じていたい!と思う。
時々ふと思うのです。
私、生きているんだろうか…
生きているよね?
大丈夫だよね?
もしかしたら、私はすでに死んでたりして、なんて思う瞬間が、ある。
生きていると思い込んでいるのは自分だけで、他人から見たらすでに死んだ人だったりして…
どうやって確認すれば良いんだろう。
自分が生きているつもりでいる間は、きっと死んでも「生きてる。」
…つまり、もし死んだとして、「死んだ」と自分自身で認識しない間は…たとえ肉体がすでに無くなっていても「生きてる」と感じるだろう。
じゃ、どうなったら「死ぬ」?
どうなったら確実に「死んだ」と認識できるんだろう??
結局、死ぬか生きるかは自分の意識が決めてるってことなんだろうか。
肉体が死んだって、意識が生きていると決めている場合は、誰に何と言われても、自分としては「生きてる」と主張するだろう。
(現実的に、私が肉体の死を迎えた瞬間…)
誰か「かわいそうにね、未だ若いのに亡くなって気の毒だね」
私 「は?私死んでませんよ、生きてますけど?」(でも私の遺体を目の前にした相手には聞こえていない)
…みたいなことになるんだろうか。
死んだことが解らない霊(たましい)はそこ此処にたくさんあります。
死んだことをどうやって確認すればよいのかが問題。
結局、私たちの生きてる世界は自分の思い込みの中で展開しているのだと私は理解しています。
生きてると思っている限りは生きているし、死んだと認識したときから死ぬ…
肉体が死を迎えたのに、「死んだ」と認識できていない霊(たましい)は、いつものように行動しようとするでしょう。
実際肉体がないのだから、行動しようにもできない筈なんだけれど、普段から「行動しているという実感がない」人にとっては、生きていても死んでいても結局あんまり実感がないのではないかと思うのです。
だからもし死んだら「死んだ!」と解るように、いつも「生きている実感」を伴った生き方が大切なんでしょう。
「今、生きてる!」と感じられる毎日。
「生きてて良かった」と感じる瞬間の多い生き方。
私たちの目の前で展開している物事・事象は、実はすべて自分の思い込みの中で展開しているというのは、生きていると思えば「生きている現実」が目の前にあり、死んだんだと認識してこそ、「生きている現実」が終わるということ。
だったら生きている間も、目の前の出来事が「幸せなこと」と思えばその通りの実感を得るし、「不幸なこと」と思い込めばそれは不幸な感覚や現実となって実感する。
これが、「自分の観ている世界は自分自身が創り出している」といわれる所以。
どうせ創り出すなら、生きてる実感を伴った、できる限り幸せな現実が良いなと思います。
時々ふと無意識に次の瞬間に起きることを見ている時があります。
普段は、先のことはあえて観ようとして観ている、それは「予測」である筈なのに。
まるで時間を飛び越したような、DVDをスキップ再生したような、そんな感覚で、「先はこうだ」と認識した瞬間、経験してしまうことがあるのです。
「予測」だと思ったことが、一瞬にしてすでに実現していて。
どう説明するのがベストなのかよくわからないけど…現実感が薄い。
実は「先のこと」「次のこと」という認識が、時間を飛び越したような感覚にさせるだけで、時間の概念をはずして今この瞬間、現在も過去も未来もすべてあって、全てのことが同時に起こっていると解釈すればつじつまが合うと思います。
先も前もなく、今だけがあると考えれば、時間を飛び越したような感覚も別にたいしたことではないし、「今解ったことはわかった瞬間に実現するものだ」ということになるだけですもの。
結局、時間軸は必要ないということなのでしょう。
今にフォーカスしているだけで充分充実した人生が送れる。
「結果として」という概念が過去を形成し、不安や心配が「先を予測しようとして」未来像を作り出す。
「今解ったことはわかった瞬間に実現するものだ」としたら、不都合は起こらない筈です。
回避する暇がないのだから。
回避しなければならないような不都合や不具合、災難が降りかかるのなら、なぜ人は生まれてくるのか。
身に降りかかる出来事は、よく見えても悪く見えてもすべて必要なことであって、そう簡単に折れてしまう命なら生まれ来る意味がありませんから。
最近のこんな感覚を、よく噛み砕いてみて。
そして今変化しようとしている流れとあわせてみると…
”今この瞬間を体験し、生きていくということを決定する”
それが、私たち地球人にとって「生きている」ということなのだなと思えます。
多次元にわたって存在する生命体には、それぞれの次元において課題がある。
地球において、私たち人類の課題は、これなんだろうな、と思います。
最近の私自身のチャネリングのトピックになっている素粒子や宇宙量子論も、地球以外の惑星で生きた記憶も、今、私のこの人生において生まれてから今日までの日々も、特殊なことでなく、自分に関係の無いことではなく、過ぎてしまった過去のことではなく…どれも今自分の記憶の中や意識の中にある事柄なのです。それが今この瞬間ということ。現在も過去も未来も、今この瞬間にあるということ。
それを認めて、自分なりに理解し、胎に落ちた時、集大成として、この、「生きていくことを自分で決める」という課題の意味が解るのかも知れません。
宇宙には様々な仕組みがあり、遍く法則性がある。
私たちが地球人として肉体をもって生まれてくる所以は、その仕組みや法則性を用いて、時間軸の統合と現実創造・自己実現を確認すること。それができたら、地球人は卒業で、もう三次元世界に転生する必要はないとよく言われます。
”アセンション”という言葉で表現される今この時は、地球も含めた三次元世界の卒業試験の時期なのかもしれません。
3・11以来、確かに私たちの住む世界は変わりました。
表面上だけ、今までと変わらず流れているふりを続けているけれど、根底は大きく変化してしまったので、どうもあちこちにほころびが出てきているように感じます。
明らかに放射能の汚染は進み、食のあり方も、生活の仕方も変わらざるを得ない局面を迎えています。震度5を数える地震が日本全国で頻発。1時間に1000ミリを超える尋常でない雨が降る。
世界経済はいくつもの大国がデフォルトの危機。日本も影響を受け、円高が進み経済は低迷、国の借金は膨らんで復興資金が出てこない。ざっと見回しただけでももいくつも今までと相当違う、そして解決策の無い混乱が始まっています。
皆さんはそんな変化に気づいておられるでしょうか。
とかく、スピリチュアルに興味のある方は、こういった社会事象のネガティブな気運に巻き込まれるなと言われ「我関せず」で生きている方も多いようです。
私はそれは全くナンセンスだと思っています。
この世界に生きている以上、この世界に起こってくることを無視したり見ないフリをして生きていくことはできません。この世界で起こる事象から学ぶため、私たちは地球に人間として生まれてきたのです。今どんなことが起こっているのかに目を背け宇宙人や天使に依存しているとしたら、それはスピリチュアルを隠れ蓑にした逃げに過ぎません。
社会事象のネガティブな気運を知り、その上でそれに巻き込まれないよう最善の策で生きていく、またはそれを実現しないよう最善の状態を作っていくことが、人間として生まれてきたチャレンジでありミッションです。それがこの世界の理である”バランス”です。
どうか偏ったスピリチュアルを妄信せず、「この地球に産まれこの地球と共に生きるバランスの取れたスピリチュアリティーの高い人間」であっていただきたいと思います。
そんな世界の変化の中で、「何が本当で何が本当ではないのか」わからなくなってきています。
このブログをお読みになっている皆さんはきっと、きちんとそれを把握しようとしていらっしゃる方がほとんどだと思いますが、情報は明らかに錯綜しています。
稀に見る混乱期、この状況は現代文明では初めての経験なのかも知れません。
私たちは良くも悪くも、政府の発表やマスメディアの動向に左右されています。
最近まで、例えば「国が発表する情報」といえば、テレビ・ラジオか新聞を通じてしか手に入りませんでした。当然のことながら、政府見解と違う意見があっても、また隠蔽があっても、発表する側が情報を一元化すれば、異論は世間に公表されることがなかったのです。
ところが、インターネットが急速に発達し、PCや携帯で様々な情報を受け取ることができるようになりました。それはつまり情報の発信もできるようになったということで、今まで闇に葬られていた「公式発表に対する異論」が発信され始めたということです。
TwitterやFacebookが発信源となって、今までけして表に出なかった情報が出てきて、それが急速に広がり火がついた…という出来事が世界で頻発しています。これが私たちの身の回りでも「情報が錯綜している」ことのひとつの理由でしょう。
”情報が一元化されていない状態なので、どの情報を信用するかは個人に任されている”それが民主主義の社会では妥当な形だと思います。日本は憲法である程度の自由を保障されている国ですから、情報の受け取り方や個人の思想・信条に関して、また制限はあるものの発言や表現についても自由な筈です。
端から言論・情報を統制し統一見解しか発表してはならないという国もあります。先日の中国の新幹線事故はそれをおかしいと思った人たちが声を上げましたね。
つい先日「おや?」っ思ったのは、いわゆる「公式でない情報」がどうやらあからさまに統制される方向に動き始めたということです。(言論の自由は憲法で保障されているものの、自由に発言していると罰を受ける法案が通り施行されている…Twitterなどで原発問題やその被害状況などについてコアな発言をしている影響力のある人が、発言削除やリンク。フォローをはずされるなど圧力を受けているようです。)
もちろん今までもいわゆる「統制」はあって、調整・黙殺・削除など水面下で行われていましたが、こんなにあからさまに行動せざるを得ない状況とは、かなり切羽詰った状況なのだな、と思います。
出てほしくない情報が大量に流出しているからこそ、荒療治でも何でも、手を打たざるを得ないのだろう、と。
放って置けば、日本も中東のような革命の風が吹き荒れるかもしれないと懸念する人たちが居るのでしょうね。
そんな中で今私がいちばん「?」を感じているのは「風評被害問題」です。
「風評」というくらいだから「うわさ」です。
「うわさ」には根拠がないものです。
だから悪質だと言われるのでしょう。
ところがこの情報社会。いろいろな根拠を示すこともできます。
ただの「根拠の無いうわさ」ではなく、自分でデータを取ったり調べたり、聞き取り調査をしたりして、情報発信している人もたくさんいます。
ところが「検証した結果に基く見解」を主張しただけで「風評被害」とされてしまっています。どうやら個人の検証結果は根拠なしと判断されているようです。
基準はあいまいでうやむやなまま、なぜか自分の不安を素直に口にした人たちが「風評被害」と悪評される。
「これが風評被害です」という明確な基準が無いにも関わらず、言葉だけが独り歩きし、私たちの一人一人の判断基準にも混乱を与えています。
考えてみれば簡単なことなのですが、どういう基準でどういう場合はが風評被害と言えるのかをきちんと見解として示せばおさまるのではないのでしょうか。これから保障問題も大きくなっていくでしょうから、基準を決めないのは「???」です。
混乱状態を維持することが必要でわざと放置しているのかと思います。
「風評被害問題」に限らず、考えが混乱するような状況に巻き込まれないためにも「自分自身の判断基準」をもう一度確認しておきたいものです。
何かを自分で判断するときと言うのは、一般的な(特にマスメディアの誘導する)「良し悪し」はさておき、まず情報を目にして、自分自身がどう感じるのかを問うことから始まるはずです。
ところが。
基準の無い「風評被害」のような不安を強く印象づけられてしまうと、自分の感じたことが社会的に広まっている情報と違う場合「間違っているかも」と感じてしまう
↓
人にどう見られるかを気にして生きている人は「間違っている自分」はとても嫌なので、「大衆の意見に合わせておけば無難」という判断をし、自分の感性は無かったことにして「みんなの言うとおり」にあわせてしまう
↓
いつもそうしているとやがて脳には「近道回路」ができてしまって、自分の感じたことと周りの見解が違うと言う葛藤にぶつかりそうになると、自動的に「近道回路」が働き「みんなの言うとおり」に修正されてしまう、ということが起こります。
長い間そういう生き方をしていると、何でも「みんなの言うとおり」になってしまっている自分に違和感も持たなくなります。「ちゃんと考えてこうなんだ」といえるようになってしまうのです。それと引き換えに無くしてしまうのは「感性」。どう感じるか、という、生物に本来備わっている”野生のカン”が働かなくなっていきます。
私たちは生き物ですから、脳で考える前にまずこの”野生のカン”が働くようにできています。
その人個人に備わっているものだから”野生のカン”は操作できません。
それに対して、頭で考えることは簡単に操作される可能性があります。
脳で考えることは個人的なものもありますが、「その他大勢の意見」ももちろん取り入れることができます。両方を加味してどちらかまたは多くのものの中からひとつを抽出して最終的にそれを「自分の意見」とする作業をします。もし脳で考えることが優先になってしまったとき、ここでの作業に混乱をきたしたらどうなるでしょう。作業中にどちらかに意見が流れるような影響を強く受けたとしたら?本来の自分の判断はできなくなってしまいます。
何が本当で何が本当ではないのか
それは、「【自分自身の中で】何が真実で何が真実でないのか」ということ。
他人とは違うかもしれない。
でも自分の生物としてのカンが「何が必要で何が必要でないか」を叫んでいるはずなのです。
社会的に正しいか正しくないか「考える」ことは2番目にして、まず一番目に「感じる」ことです。
そして、それが社会で言われていることとどのように違うのか、それに対して自分はどのように対処をするのか検証してみてください。
みんなと違うことを感じよう、考えよう、という意味ではありません。
結果が社会的に言われていることと同じだったとしても、きちんとこのプロセスを踏んだかどうかが問題です。
例えば嘘の情報に踊らされ、振り回されて、右へ倣えしてきたのに事実は違ったとなると、自分の生き方に納得がいかなくなってしまいます。そこには怒りや悲しみ、恨みしか発生しません。
情報と言うのは「操作できるもの」ですから、後出しもありです。(3.11以来、特に原発の問題については、もうずいぶんいくつもそういうものを見せられていつのですが、みなさんちゃんと気づいていらっしゃるでしょうか。)
それを踏まえて、「自分は何を選ぶのか」を常に心の片隅において確認しながら生きて行きたいものです。自分の人生ですからきちんと自分で選んで、たとえ失敗した!と思っても納得のいくように生きたいものです。「自分への信頼感」が良いカンを働かせるための最大のファクターですから。
もちろん、「政府やマスメディア発表にいわゆる公式情報」以外の情報…インターネットでの情報やブログ等で発信されている個人的意見に触れる場合も同じことが言えると思います。
最近は地震が来るという予知情報などもたくさん拡散されています。
そういう情報に触れたとき、ただ鵜呑みするのではなく、恐怖を覚えるのではなく、感情や知識は置いておいて、頭ではなく心でその情報がどんな感じがするかを精査してください。
祈るのも、恐れるのも、備蓄するのも非難を考えるのも、それからです。
情報も、世の中も、たしかに混沌としていますが、表面上は何も変化が起こっていないかのように見せられています。
福島では未だ放射能汚染がおさまらないまま、東北では地震後の復興もなかなか進まないままなのにも関わらず、テレビではお笑い番組やグルメ番組が普通に放送されています。
また、被災地にあっても、放射能が検出されている食材を「基準値以下だから」と肯定する動きがあり、それに不安を示すだけで「風評被害」と批判されると言う本末転倒のことが起こっています。
どちらが本当でどちらが本当でないのか、わからなくなっている人も大勢いるはずです。
私たちにとって今の状況は、ひとつの「試験」なのかもしれません。
このまま「わからないから、まあいいや」「みんなと一緒が無難」と流されていくのか。
これをチャンスと捉え真摯に向き合い「自分は何を選択しどう生きるのか」を決めるのか。
今は分かれ道なのかも知れません。
二つの流れがそれぞれ行き着く先もイメージしてみてください。
「まあいいか」と流されていったとしても、もうこれまでの世界に戻ることはできません。
時間は確かに流れていて、世界は確実に変化しています。
この混乱や混沌を勝機と捉え「【自分自身の中で】何が真実で何が真実でないのか」を分けていける人は、まだこの先にくるであろう荒波を乗り越えていける、そんな気がします。
3.11の地震、その後の余震や最近の大きな地震。
人工地震という説があるようです。
政治の問題も、経済に関しても、様々な「策略がある」と、まことしやかに語られている様子。
そんなに不安を増幅してどうしたいのでしょうか。
どれも「疑い」はあるが「確たる証拠」はない。
疑いを抱かせるような、なんとはなく証拠になりそうな情報はばら撒かれていて、それを拾い上げた人々が、その情報を根拠に謀略説をささやき始める。
そんなすごい策略や謀略なら、そもそもリークされないでしょう。
人の手によって起こされたと思うより、自然の力で起こったと思うほうが人間は無力感を感じます。
むしろ人々に無力感を与え恐怖させたいなら、謀略説より自然説でしょう。
それなのに何故謀略を匂わせるような情報が飛び交うのでしょうか???
謀略説の目的は、人々に「怒り」を植え付けることなのではないかと思います。
恐怖して萎縮するより、怒りを覚えて報復の応酬になる方が、簡単に波動を下げることが出来ます。
誰も手を下さなくても「怒り」の種をばら撒いておくだけで、人々は誰かを「首謀者」と疑い、疑われた者は報復に出て、勝手に足を引っ張り合い自滅していってくれるでしょう。
「疑い」を広めて、心を不安な状態に陥れ、精神を不安定にさせる…
これ、いわゆるマインドコントロールの常套手段です。
誰が何のためにマインドコントロールを仕掛けているのか、なんて、考える必要もなければ知る必要もありません。
ただ、マインドコントロールにかからなければ良いのですから。
私たちはもともととても無力なんですよ。
原発を作っても、事故を収める能力もないのです。
(あれば状況は改善しているはずですが、全くその兆しは見えません)
どこかに勘違いがある。
それも誰かに仕向けられていることです。
例えば人工地震が本当だとしても、最終的に地球がOKしなければ起きません。
そこに人の策略があったとしても、それは起こるべくして起きたのです。
地球はその地震の発生を止めなかったのです。
一方、先日の台風。
どんな大きさと勢力で日本を襲うのだろうと心配した人も多いはず。
しかし、あれは地球がOKしなかったのでしょう、さっさと温帯低気圧に変わってしまいました。
私たちは、地球の技には対抗する術もない。
だからいろいろな証拠(らしきもの)があったとしても、それは「人が起こした」という大それたものではなく、結局は最後の地球がOKした、起こるべくして起こった出来事なのだと、私はとらまえています。
自分たちの作った、そして暴走している原子炉を止める策すらない人類が、自然の力に逆らえるはずもありません。
私たちはいつからそんなに偉くなったのでしょうか。
いつから地球の決断を凌ぐほどの偉大な存在になってしまったのでしょうか。
誰に、どんな情報に、いつから踊らされていたのでしょうか。
地震も、原発事故も「もう一度考えるチャンス」なのだと私は思っています。
私たち人類と地球の関係性…
”○○県○○市に住んでいる○○市民の誰それ”という小さな視野でなく、この宇宙に、地球上に許可され生かされている、人類=生命体という大きな視野で考えてみる必要があります。
放射能汚染が進み、いずれ蓄積して人々も汚染され病気になるかも知れません。
死に至ることもあるかもしれません。
それは誰の仕業でしょうか。
地球から観れば人類の仕業です。
「私のせいじゃない」なんて通用しませんよ。
私もあなたもこの地球上にOKされて生かされている人間じゃありませんか。
原子力発電に関して、目に見える直接的な関係性はなくとも、やはり私もあなたも、この責任の一端を担っているには違いありません。
あの地震の後、人類自らが育てたマスメディアの力、映像の世界配信によって、津波ですべてがさらわれていくのを、世界中の人が目の当たりにしました。
その意味はいったい何なのでしょうか。
形あるもの、人々が生涯をかけて働き稼ぎ出すお金で実現するマイホームが、あっという間に瓦礫に変わる。
愛して止まなかった親や子が一瞬で手の届かないところへ押し流されてしまう。
自然の決断に際してあなたたちは無力なのだよ、との地球からのメッセージではないのでしょうか。
例えばこれが誰かの策略で、首謀者が居たとしても。
その人を死刑にしたからといって元に戻るものではありません。
その人を恨んでもなにも変わりません。
自分の苦しさが増すだけです。
見た目は誰かの策略なのかも知れない。
それはたまたま手段だったのであって、その災害を決断したのは地球自身なのです。
仮に人類が謀略によって起こそうとした地震だったとして、それに対して地球はNOを出すことだってできるのです。
先日の台風のように。
アメリカの竜巻。たくさんの人が家を失い死者も多数でした。
助かった人も怪我をしていて、何よりその衝撃は日本での震災と同じように、心に大きな恐怖とともに自然の脅威への無力感を与えた筈です。
これも気象操作兵器ですか?
中東の独立運動。ここでも多くの死者と怪我人が出ています。
これも闇の人々の謀略ですか?
ユーロ圏はデフォルトの危機です。
一つの加盟国の経済が破綻すれば連鎖的に金融危機が勃発する危険性が出てきています。
これも謀略なのでしょうか?
日本の政治が紛糾しているのは某国による操作が入っているからなのでしょうか?
特にインターネット上では様々な謀略説がささやかれ、人の心を疑心暗鬼の陥れるような情報が蔓延しているようです。
それこそが策略です。
どうかそれに嵌らないよう気をつけてください。
人間が地球よりも偉くなってしまったとき、この策略にはまってしまうのです。
いつも地球と人類との関係に目を向け、自分の立ち位置を確認してください。
東南アジアでは、頻繁に洪水が起きていることをご存知でしょうか。
太平洋に浮かぶ島々では大潮のたびに高波で町が浸水しているのをご存知でしょうか。
北極では氷床が減少し、多くの動物が生存の危機に瀕していることをご存知でしょうか。
地球は本気で人類に気づいてほしいようです。
サインをたくさん出しています。
日本人は、今、地球のOKで起きた地震や原発事故の意味を知ろうとすることが急務です。
悲しみ、恐怖し、毛嫌いし、逃れることばかりを考えていては、物事の本質は見えてきません。
どうか、一人ひとりがまっすぐ向き合ってください。
人類の一員として生かされていることに感謝し、地球に対する所業を認め謝罪し改善していく方向へ向かっていきましょう。
誰かのせいにして誰かを恨んだり、恐れたりするのはやめて「自分と地球」というスタンスで生きて行きたいものです。